国情院工作秘話−北朝鮮労働党員宋斗律企画入国事件の深層
月刊朝鮮10月号、禹鍾昌部長待遇
北朝鮮労働党員宋斗律の自白を引き出したのは、米国に脱出した北朝鮮工作員金ギョンピルのコンピュータ・ディスク再生記録
■国情院、統戦部ヨーロッパ工作員金ギョンピルのコンピュータ記録入手
ベルリンにある北朝鮮の利益代表部金ギョンピル(58・仮名)は、夫婦同伴で勤務中である統一戦線部所属書記官だった。彼は、1998年現在で3年間勤務していた。彼の任務は、ドイツを中心にしたスイス、オーストリア、フランス等、ヨーロッパ各国の韓国僑胞社会工作だった。韓国僑民中の親北団体と人士を管理しつつ、北朝鮮の連邦制統一方案を宣伝し、大韓民国のイメージを損傷させ、北朝鮮政権を広報することが彼の仕事だった。
彼は、多くの親北人士を包摂し、米国僑民社会にも手を伸ばした。彼の重要任務中の1つは、北朝鮮労働党政治局候補委員である宋斗律と連絡し、彼をそれなりに調整管理することだった。
1998年、彼は、ドイツの経済中心地フランクフルト僑民C氏から苦衷を聞いた。この僑民は、出版・印刷業に従事し、金ギョンピル書記官と協調する親北人士だった。C氏は、自分のコンピュータが故障し、一つを新たに買うのだが、助けてもらえないかと語った。折りよく、金ギョンピルは、自分のPCが古く、買い換える計画を備えていた。彼は、『私のコンピュータを使え』と語り、やると語った。
金ギョンピルは、コンピュータを渡す前にハードディスクに入っている記録を全部消した。金ギョンピルのPCを譲り受けたC氏は、何らかの経路を経て、このコンピュータに内蔵されていたが、金ギョンピルが
消した記録を再生するのに成功した。このコンピュータ・ディスクの記録は、そっくり我が国情院現地要員の前に渡ってきた。この記録は、金ギョンピルのヨーロッパ工作状況を仔細に含んでいた。情報機関としては、最高の特種だった。金ギョンピルは、PCに一旦入力された資料は、簡単に再生されるということを知らなかった。
1998年12月、金ギョンピルは、平壌の統一戦線部から1ヶ月以内に帰還しろという命令を受けた。金ギョンピルは、帰還時期ではないのに、何故突然戻って来いという命令が下されたのか、不安になり始めたという。利益代表部大使等、職員達が自分を見る目も尋常ではなく感じられた。自分が何を誤ったのか、その事実が平壌に知られたのではないか、不安で耐えられなかったという。今回帰れば、処罰を受けるだろうという予感がしきりにしたのである。
■ヨーロッパの米大使館亡命、CIA管理に移る。
このとき、国情院ヨーロッパ工作部署から連絡が来た。金ギョンピルと会った国情院要員は、金ギョンピルの活動内訳が詳らかに載せられたコンピュータ・ディスクの話を
持ち出し、単刀直入に韓国に帰順することを勧めた。帰順しなければ、北朝鮮側に情報を流し、破滅させるという意味もほのめかしたのである。
怖気付いた金ギョンピルは、数日後、夫人の金某氏(56歳)と共に、自動車便でヨーロッパの第3国に走り、米国大使館に亡命を申請した。1999年1月、彼は、米国のCIAに身柄が移った。約5ヶ月に渡り、彼は、尋問を受けた。彼は、ヨーロッパでの活動相を仔細に説明した。ドイツ情報機関(BND)でも、人を送って金ギョンピル夫婦を尋問した。米国CIAは、この尋問過程において、金ギョンピルから「宋斗律は、北朝鮮労働党政治局候補委員である金チョルスだ」という話を直接聞いた。金ギョンピルは、初めに「宋斗律は、平壌の統戦部で直接管理する」と語り、積極的な陳述を
憚ったという。米韓間の情報交流協調に従い、国情院も要員を送り、金ギョンピル夫婦を尋問した。
金ギョンピル夫婦は、米国に亡命するとき、コンピュータを持っていかなかったが、活動状況に対する陳述を通して、ヨーロッパ僑民の中に入り込んだ北朝鮮の工作状況と親北人士の名簿を
多く打ち明けた。
■尋問受けつつ、子息の思いに涙
金ギョンピル夫婦が何故、国情院の工作方向通りに韓国に行かなかったのが気にかかる。金ギョンピルは、韓国に北朝鮮工作員と親北人士が多く包摂されており、非常に危険だと判断し、米国行を選んだという。金ギョンピルはまた、南北朝鮮情報機関間にその何らかの内通チャンネルがあるという心証をほのめかしたという。
金ギョンピル夫婦は、生きるために脱出したため、平壌に置いてきた息子、娘のことを考え、尋問中にも
多く泣いたという。この夫婦は、今、身分を変え、就職までして、米国CIAの保護の中で暮らしている。情報源に対するこのような保護は、両夫婦が死亡するときまで継続される。
米国CIAは、金ギョンピルを通して、金剛観光等、全ての対南事業を統戦部で管理するが、その主目的は、金稼ぎではなく、韓国赤化のための内部撹乱、親北橋頭堡確保という事実を確認できたという。
■国情院、黄長Y裁判資料も提出せず
一方、金ギョンピルが残したコンピュータ記録を入手した国情院は、金ギョンピルが宋斗律を調整し、管理した連絡責だったという事実を知ったという。宋斗律と関連した連絡記録、対談録等がディスクに入っていたという。
国情院では、1998年8月号月刊朝鮮の特種報道(「宋斗律は、北朝鮮労働党政治局候補委員だ」)以後、宋斗律氏が 발설자
黄長Y氏を相手に損害賠償請求訴訟を提起するや、金ギョンピルのディスクを証拠資料として提出するか、苦悶したが、出さない方向で決定したという。万一、裁判の結果に執着して、国情院がその時ディスク記録を裁判部に送っていれば、宋斗律氏は、帰国を放棄したか、準備をしてきただろう。
今回、宋斗律氏が国情院の非常に弛んだ出退勤調査で余りに早く自身の北朝鮮労働党入党と政治局候補委員任命に対して自白したのは、国情院が突きつけた金ギョンピルのディスク・ファイルの内容と米国亡命後、金ギョンピルが陳述した内容が余りに具体的で、到底否定することができないためだという。
一部マスコミでは、今回、国情院が金ギョンピルを宋斗律氏と対質させたと報道したが、実際に尋問調書を残した人物は、ヨーロッパで活動中に帰順した北朝鮮の別の工作員崔某氏だという。崔某氏もまた、宋斗律の活動相を知る立場にあったことから、金ギョンピルの記録を補完する証言を行ったものと見られる。
国情院は、宋斗律事件捜査記録を検察に渡す時、金ギョンピルのコンピュータ・ディスク記録も添付しておいたため、その全文は、裁判過程で公開されるものと見られる。
連合ニュースによれば、北朝鮮は、1999年1月19日と26日、祖国平和統一委員会声明と真相公開状を通して、『韓国安企部が金ギョンピルを拉致した』と主張し、その年の3月には、国連駐在北朝鮮代表部が拉致主張声明を発表した。
当時、北朝鮮は、『韓国の安企部が「崔○○」という人物を汎民連ヨーロッパ地域本部に浸透させ、金氏のコンピュータ入力資料を抜き出して、それを脅迫手段にし、「ハン・ヒョンス」という人物が金氏を拉致した』と主張した。
北側は、『ハン氏が金氏を拉致する直前、金氏に1997年に作成した業務内容100余個の目録を脅迫用に提示し、北朝鮮工作員名簿を渡せと要求した』とし、『2人が会う行跡を追跡しており、1999年1月18日付で金氏に対して、帰国命令を下した状態だった』と主張した。
韓国の高位情報消息筋は、『宋斗律は、1997年1月、黄長Y氏が亡命するや、その年の2月、ベルリン駐在北朝鮮利益代表部金ギョンピル書記官に「黄長Yが私が労働党指導機関成員であることを知っているのか」と訊ね、金ギョンピルは、これを平壌に報告して、指針を受けた』と語った。
数日後、北側は、金ギョンピルを通して、「祖国では、黄長Y先生が(あなたが)党中央指導機関成員であることを知らないものと判断しているが、謀略宣伝に強く反駁しろ」という指示を宋斗律に下したという。
宋斗律を袋小路に追い詰めたもう1人の人物がいた。汎民連ヨーロッパ本部事務局長として活動しつつ、宋斗律氏の工作活動を知っていた崔某氏。釜山出身の彼も、1999年に韓国に帰順した。金ギョンピルがコンピュータを渡していたC氏が崔某氏と推定されるが、彼は、金ギョンピル書記官が米国に脱出し、崔氏が国情院と協調関係にあったことが知らされるや、帰国したものと見られる。宋斗律氏は、国情院捜査過程において、汎民連加入の事実を否認したが、崔氏が持ってきた加入願書を見て、自白したという。
■ソウル・オリンピック開催に反対する本広める。
在独社会学者宋斗律氏が北朝鮮の大物級工作員だという情報を国家情報院が最初に入手したのは、1982年9月だった。この情報は、この頃、スイスから勧告に帰順した北朝鮮金正日の前妻成恵林の甥李韓永(1997年殺害)氏が提供した。金正日と成恵林の間に生まれた金正男と同じ家で生活し、金正日といつでも会うことができた李韓永氏は、金正日から直接聞いたとし、このように陳述した。
『西ドイツには、朝鮮労働党欧州委員会があるが、その委員長は、金チョルスだと金正日が語るのを聞いた』。
金チョルス、即ち宋斗律氏に対する国情院の追跡調査は、この陳述から始まり、21年間の粘り強い調査の果てに、国情院は、宋斗律氏が北朝鮮権力序列23位である労働党政治局候補委員金チョルスであることを確認した。
宋斗律氏が北朝鮮と連携した対南工作員だという事実は、1992年、自首間諜呉吉男事件時、既に発表されたことがある。当時、安企部は、呉吉男氏一家を入北させた張本人が宋斗律氏だと発表した。安企部は、発表文において、「宋斗律は、1991年5月10日から5月30日まで入北、金日成と面談し、主体思想を賞賛し、この時の北朝鮮訪問記をハンギョレ新聞に3回に渡り掲載し、北朝鮮を賞賛した」
と指摘した。
この頃、作成された安企部の「宋斗律ファイル」によれば、▲宋斗律氏は、1977年から1988年までの11年間、反国家団体である在日韓民統及び北朝鮮と連携したヨーロッパ地域左派連合組織である「韓民連欧州常任委員会」会議に数次参席し、「西ドイツと北朝鮮間の修交を主張し、韓国単独の国連加入に反対し、▲1988年ソウル・オリンピック開催を妨害するため、「平和
祭典を行えない国−韓国」という本を出版した。
また、▲1990年12月、ドイツ、フンボルト大学において、留学生と教授を対象に、「韓国は、新植民地国家独占資本主義、新民主的反資本主義国家等、2個の学説に分類できる隷属資本主義国家で、韓国の労働条件は、世界で最も劣悪だ」という趣旨の講義を行い、▲1991年、北朝鮮社会科学院招請により入北しては、「首領と人民の関係は、愛に基礎を置いたもので、愛のない平等は、社会を追いやることもある」とし、金日正主体思想を賞賛し、▲1991年6月、ベルリン所在汎民連海外本部事務室で開催された「1991年度汎民族大会準備会議」に汎民連ヨーロッパ本部代表の資格で参席し、「金日成は、
非常に賢い方で、北朝鮮住民が苦労しているのは認定するが、これは、南北分断が醸し出した結果で、北朝鮮住民は、これによる困難を良く耐えている」という発言をしたということである。
このファイルにおいて、安企部は、宋斗律氏に対して、「1967年渡独以後、1992年現在まで、北高位層の格別な信任を受けつつ、極力親北活動を行っている者」と結論付けた。
■事件の始まりは、月朝特種
「北高位層の格別な信任を受ける対南工作員」宋斗律氏が「金チョルスという仮名の北朝鮮労働党政治局候補委員」という事実は、1997年に亡命した黄長Y前労働党国債担当秘書ににより、最初に公開された。1998年6月に出版された黄長Y氏の「北朝鮮の真実と虚偽」という本に初めて取り上げられたこの内容を月刊朝鮮が1998年8月号記事で特種報道し、広く知られた。
黄長Y氏が書いたこの本は、北朝鮮同胞が金日成−金正日父子の虚偽と欺瞞に騙されず、自分の精神を持って、自己の運命を自ら開拓することを勧告する内容だが、宋斗律氏の正体を暴露するためのものではなかった。4・6倍判より小さい形態で計128ページに及ぶこの本において、宋斗律部分は、半ページに渡り、極めて短く言及されているだけである。引用すれば、こうである。
<我々は、長い間、北朝鮮の中枢部で働き、北朝鮮の統治者達に欺瞞され、彼らに忠誠を尽くしている僑胞達の身の上が、どれほど哀れなのかをはっきり見てきた。
例を取ると、私は、ドイツにいる宋斗律教授を良く知っている。彼は、聡明で、博識な学者である。北朝鮮の統治者達は、韓国の学生とドイツにいる留学生を引き寄せるため、そして各種別の目的に利用するため、彼を「金チョルス」という仮名の下に政治局候補委員に選出し、金日成が接見した写真を(労働)新聞に大きく報道したことがある。
それならば、金正日が彼を信じているのか。金正日も、統一戦線部幹部も、彼を信じていない。対南工作をしていた李善実(86)も、政治局候補委員に選出されたが、北朝鮮で 彼女は、哀れな存在となっている。万一、宋斗律教授が李善実と直接会い、自由に意見を交換できるならば、李善実を通して、金日成−金正日に騙され、一生を虚しく送り、 他人の笑いの種となったのが、どれだけ胸を痛めるかに対して、必ず聞かされるだろう。>
■金日成に捨てられた間諜李善実
李善実は、金日成葬礼式時、北朝鮮権力序列22位として発表された高位級間諜である。金日成葬礼当時、宋斗律氏は、李善実より権力序列が一段階下の23位として発表された。李善実は、1992年に発覚した韓国朝鮮労働党間諜団を総指揮した女性間諜である。
済州島南済州郡大静邑加波里が故郷である李善実は、1950年4月に越北し、労働党中央党金剛学院で共産主義思想学習を受け、黄海道女盟幹部を経た。李善実は、1963年、金日成に『祖国統一事業に一生を
捧げたい』と嘆願、対南工作員教育を受け、南派された。
李善実は、間諜団事件が発覚する直前の1992年、北から南派した潜水艇に乗って、北に脱出した。李善実機関工作の現場責任者は、帰順した間諜金東植である。金東植は、要人暗殺及び拉致、テロ専門部署である社会文化部(今、名称は、35号室)所属ベテラン工作員である。金東植は、国情院の老練な誘引工作により扶餘の
ある庵で検挙された。
間諜として南派され、大韓民国に朝鮮労働党を作っていた伝説的なハルモニ工作員李善実だったが、金日成−金正日父子の立場からは、1つの道具に過ぎなかった。北に帰還した李善実が「冷や飯」の身の上に転落するのを黄長Y氏は、目で目撃した。黄長Y氏は、「北朝鮮の真実と虚偽」という本において、李善実の哀れな立場をこのように描写した。
<金日成が新たに建設された(平壌)光復通りを見回りに出たとき、韓服姿で参加していた李善実は、大いに思い込み、金日成を探して、大きなお辞儀をしたが、金日成は、彼女を見知りもしなかった。彼女が 退いた後、金日成は、随行した幹部達にいかなる女性なのか訊ねた。我々は、この場面を目撃し、対南工作に動員される人々の身の上が、どれほど哀れなのかを切実に感じた。>
■宋斗律を弁護する民弁
黄長Y秘書が自分の本において、宋斗律部分に言及したのは、宋斗律氏も北朝鮮の虚偽と欺瞞に騙されず、李善実の前轍を踏むなという友情の篭った忠告の一環だった。それでも、宋斗律氏は、黄長Y秘書が出版物を通して、自身の名誉を毀損したとし、黄秘書を相手に1億ウォンの損害賠償を請求する訴訟を提起した。正常人の目で見れば、悪辣な法律闘争だが、共産主義者達は、韓国の憲法体制を破壊するため、その憲法を利用する。この訴訟により、「宋斗律の正体」は、国民的関心事に刻み込まれた。
宋斗律氏を庇護する親北勢力と親北性向の一部マスコミは、宋斗律の肩を持つ偏向的視覚を露骨に表した。この訴訟において、宋斗律氏は、黄長Y個人だけを相手に訴訟を提起したのみで、黄秘書の本を引用報道した月刊朝鮮に対しては、戦線の拡大を憂慮した
訳なのか、行動を取らなかった。
宋斗律氏は、この訴訟を「民弁」(民主社会のための弁護士の集まり)に依頼し、民弁所属の安某弁護士が訴訟を担当した。民弁は、宋斗律氏帰国を積極推進した団体中の1つである。宋斗律氏の法定代理人の役割をしている金亨泰弁護士と宋斗律庇護発言をした康錦実法務長官は、全て民弁出身である。
国情院は、宋斗律氏に対する調査において、黄長Y氏を相手に訴訟を提起した理由を尋ねたが、宋氏は、答弁をしなかったという。国情院の調査の結果、宋氏は、黄長Y氏亡命後、自分の正体が露見するのかと憂慮したが、北朝鮮が宋氏に「黄長Y秘書は、あなたが党中央機関成員であることを知らないものと判断しているが、謀略宣伝に強く反駁しろ」という指針を下すや、これに従ったことが明らかになったという。
それでなのか、訴訟提起後、宋斗律氏は、中央日報と行った電話インタビューにおいて、黄長Y氏が自分を北朝鮮労働党政治局候補委員金チョルスだと主張したことに対して、このような主張を広げた。
『1991年5月、金日成大学で黄氏の弟子達を相手に主体思想批判講演を行った。また、亡命以後、彼の発言が余りに粗悪で、「拳闘装甲をはめて、ピアノを弾く感じ」と語ったのが、彼の感情を
傷つけたようだ』。
黄長Y氏は、北朝鮮にいる時、宋斗律氏と会ったことがあり、宋氏が1994年主体思想に関する論文を要求したとき、個人の秘密研究所で作った資料を与えたこともあると、月刊朝鮮とのインタビューで明らかにした。黄氏は、『韓国で出版された宋斗律氏の主体思想関連の本は、私が与えた資料を根拠に書いたもの』と語った。
■「保安上、ソースを明らかにできない」
訴訟が進行中だった1998年8月21日、ハンギョレ新聞は、社会面中間トップ記事で「労働党幹部金チョルスと宋斗律氏は、無関係だ」と報道、黄長Y氏の主張を正面から反駁した。ハンギョレ新聞は、ドイツ、ボン駐在韓国総領事館で1989年に作成した「領事証明書」を根拠に金チョルスという仮名を使った北朝鮮工作員は、朝鮮労働党
欧州委員長金ソンスで、宋斗律氏ではないと主張した。
金ソンス氏は、KBSが製作した「韓国社会を語る」に宋斗律、郭東儀(日本韓民統議長)氏と一緒に登場した人物である。ハンギョレ新聞報道によれば、金ソンス氏は、全南和順出身で、光州高と延世大哲学科を卒業し、1966年、ドイツに渡るが、間諜金ジャンヒョンに包摂されたという。その後、北朝鮮で間諜教育を受け、1970年、国内に潜入して活動したことがあるというのである。
この記事が報道されるや、宋斗律氏は、即刻、『ドイツに金チョルスという仮名を持った北朝鮮工作員が2人いるという話だが、どちらが本物の金チョルスなのか、黄長Y氏は、はっきり明らかにしなければならない』とし、力攻めを広げた。
これに対して、国情院は、裁判部に送った「事実照会回信」において、「宋斗律が金チョルスという仮名を使用し、北朝鮮労働党政治局候補委員という事実は、疑問の余地がない程度に明白である。これを裏付ける根拠として、帰順者達の証言、外国情報機関提供資料及び各種諜報等、数多くの資料があるが、保安上、その具体的内容を一々事実照会回信形式で明らかにするのは難しい」とした。
この回信において、国情院は、「金チョルスは、宋斗律ではなく、金ソンスという主張」に対しても反駁した。その内容は、こうである。
<金チョルス追跡過程において、国情院も一時金チョルスという仮名を使用したことがあるフランクフルト居住の金ソンスを上記人物と推定したことがあり、1989年、徐敬元訪北事件と関連、ドイツ、ボン総領事館作成良司証明書にもこのように作成、本国に報告したが、宋斗律の1994年7月と1998年2月の訪北過程で入手された各種諜報及びドイツ「憲法擁護庁」(ドイツ情報機関)の動向資料、帰順者証言、黄長Y陳述等を土台に実体確認作業を再開した結果、「宋斗律が北朝鮮労働党政治局候補委員である金チョルス」という事実を明白に確認した。
一方、フランクフルト居住の金ソンスは、1998年8月31日、これと関連、▲年輪や社会的地位で見るとき、比較もできない尹伊桑が副委員長で、私が委員長となれるのかと反問し、▲私は、ヨーロッパ民協結成以後、操縦者でも、労働党欧州委員長でもないという解明書と共に、▲領事証明書は、軍事独裁政権が民主人士を弾圧するため、歪曲捏造したものと主張し、「在独民主人士陰害対策委」名義の声明書(1998年9月5日発表)を月刊「マル」誌及び「人物と思想」社等に発送、解明してくれることを要請したことがある。>
■宋氏に送った弔慰金も記録
国情院がソウル地検公安1部(部長呉世憲)に送った「宋斗律調査綴」によれば、宋斗律氏が労働党政治局候補委員金チョルスという事実を立証するのに決定的な寄与を果たした人物は、ドイツ駐在北朝鮮利益代表部2等書記官金ギョンピル氏と汎民連ヨーロッパ本部事務局長崔チャンドン氏であることが確認された。
金ギョンピルの任務中の1つが宋斗律氏の動向を北に報告し、北から下された指針を彼に伝達することである。情報機関のある関係者は、『北朝鮮と宋斗律氏間の連絡責が金ギョンピル』と語った。国情院が検察に送った「宋斗律調査綴」の核心内容が金ギョンピルが作成したPC記録である。
このPC記録を通して、国情院は、▲宋斗律氏が1991年、金日成と面談した以降から1995年まで、北から毎年研究費名目で2万〜3万ドルを授受した事実、▲宋斗律氏
の父親が1996年8月に死亡したとき、金正日の親筆指示に従い、北朝鮮利益代表部から弔問に行き、弔慰金として1,500マルク(韓国100万ウォン相当)を送った事実、▲宋斗律氏が1996年以後、北朝鮮政権創建日と労働党創建日、そして金正日誕生日毎に、「将軍様の万寿無窮を
請う」という内容の忠誠誓約文を親筆で作成し、北に送った事実等を確認したという。
のみならず、黄長Y氏亡命後、身分公開を憂慮した宋斗律氏が金ギョンピル氏に自分の正体を絶対に言うなと頼んだ事実も現れたというのである。自身は、金チョルスではないとし、否認で一貫していた宋斗律氏は、国情院がこのような資料を突きつけるや、宋斗律氏は、自身が金チョルスで、北朝鮮権力序列23位に該当する接待を受けたのは合っているが、政治局候補委員という事実を北から通報されたことはないという方式に後退したという。
汎民連ヨーロッパ本部事務局長崔チャンドン氏は、釜山大学で時間講師を過ごしもしたが、1994年、ドイツに赴き、汎民連に加入した。汎民連は、1974年、ドイツ、ベルリンで結成された反政府団体である民建会(民主社会建設協議会)がヨーロッパ民協を経て、1989年、拡大改編された組織である。宋斗律氏は、民建会会長出身である。汎民連は、日本と米国を始めとし、ヨーロッパ各地に散らばっている親北団体の総本部として大法院により利敵団体として規定されている。
■国情院から新鮮な料理材料を送った。
汎民連ヨーロッパ本部で事務局長を経た崔チャンドン氏は、ドイツ僑民社会の親北化とドイツの韓国留学生包摂任務を担当した。彼の活動領域中、相当部分が宋斗律氏と一致した。このため、崔氏は、宋斗律氏の汎民連活動に対して、最も正統な人物である。崔チャンドン氏は、金大中政府時節の1999年、転向して帰国した。宋斗律氏調査において、国情院は、崔チャンドン氏の助けを多く受け、「宋斗律資料綴」にも崔チャンドン氏の名前が登場する。
宋斗律氏は、国情院捜査官が汎民連加入可否を尋ねるや、初めには、否認で一貫したが、国情院が入手した加入願書を突きつけるや、是認したという。宋斗律氏を調査中であるソウル地検公安1部のある検事は、『明白な証拠があっても、自分に有利な方に弁明を並べ立てる宋斗律氏は、転向の意思がないものと見られる』と語った。
ソウル地検のある高位幹部は、『宋斗律氏に対する国情院の調査は、緻密で完璧だった。検察がやることは、国情院から送った新鮮な料理材料をどのくらい美味しく調理するのかにかかっている』という言葉で、拘束後起訴を既成事実化した。
宋斗律氏に対する検察捜査は、組織的かつ体系的に行われている。
ソウル地検公安1部のある関係者は、『宋斗律氏が北朝鮮労働党政治局候補委員金チョルスという事実は、疑問の余地がない。嫌疑の事実は、ほぼ確認され、残るは、宋斗律氏が1988年12月号「社会と思想」という雑誌を通して発表した内在的方法論が我が社会をいかに親北化させたのかを把握することである。この調査が終わってこそ、捜査が終結するだろう』と語った。
数日前、法務部課長1名が宋斗律氏処理に対する問題を協議するため、ソウル地検公安1部を訪問したが、逐客の取り扱いを受けた。ソウル地検公安1部検事達の雰囲気は、このように鋭さが青々しい。それでも、宋斗律氏を美化する一部マスコミは、今も検察が宋氏の嫌疑を明らかにできないでいるとの方式で、国民を欺いている。
黄長Y再証言
■『宋斗律を助けるため暴露
宋斗律氏が検察の調査を受けていた10月10日午前、ソウル市内某所の黄長Y前北朝鮮労働党秘書の事務室を訪ねた。黄先生は、2週先に近づいてきた訪米準備のためなのか、多少疲労して見えた。補聴器をかけた黄先生と対話を始めた。
−1998年8月号に紹介された黄長Y先生の著書が導火線となり、宋斗律事件がこのように大きくなりました。その時、何故、北朝鮮労働党政治局候補委員金チョルスが実は、宋斗律だという暴露されたのか。
『彼を助けてやろうとしました。そのようにしてこそ、北朝鮮政権と関係を清算して、背を向けることができるとものと考えました。韓国に潜入し、工作活動を行って、帰って来た李善実が金日成に
そっぽを向かれるのを見物した私は、宋斗律氏も、結局は、そのように利用されるだけの存在ということを知らせたかった。李善実は、ナイロン 적삼을 곱게 입고 私と金日成に
大きなお辞儀をしたが、金日成が周囲の人に「저이가 誰なのか」と言うではありませんか。그 장면을 잊을 수가 없습니다. 南朝鮮革命のため、목숨을 바쳐 일하고
戻って来た工作員がそのような待遇を受けて、寂しく消えていくのを宋氏にしっかり分からせたかったのです』。
−宋斗律氏は、北朝鮮労働党に加入したのは、一種の入国手続だったと説明したが。
『労働党入党が宋氏の正体を知るのに最も重要な事項です。特に本国に呼んで、正式に入党させた海外僑胞は、多くはありません。その位、北朝鮮政権が宋氏を信頼したという意味で、それだけの功を立てたという話だ。宋氏を入党させ、政治局候補委員に任命したのは、韓国インテリを引き込むため、彼を大いに使おうとしたのだ。そんなに成功したものではないが。宋氏の弟子達が多く要職に進出したが』。
−黄先生のために、彼の正体が露見したが、北朝鮮政権も、彼を捨てないでしょうか。
『捨てません。絶対に。彼の過ちで露見したものでもない』。
■『宋斗律操縦者は、統戦部第1副部長林ドンウク』
−宋斗律氏は、政治局候補委員に任命された事実を通報されなかったというが。
『そんなことはない。その人を鼓舞してやろうとしたものなのに』。
−北朝鮮におられる時、宋斗律氏と何回会いましたか。
『金容淳統戦部長の付託を受けて会い、長く話したことがあります。容淳が来て、「宋斗律の言葉は、何事なのか良く理解できないが、先生が少し教えてあげて下さい」として、対話したことがある。彼の学問的知識に対しては、良い印象を得られませんでした。私の弟子達も、同じ意見だった。語学は、良くできますが。一度は、宋氏
がね、韓国で出ている本に主体思想を自分が紹介させているとし、私に原稿を代わりに書いてもらいたいとして、書いてやりました。私の原稿を持って行き、改めて再び持ってきたものを見ましたが、韓国でどのようにして出版されたのかは、良く分かりません』。
−宋斗律氏の内在的接近法ということに対して、どのように考えますか。
『考えることもできない。独裁者を独裁者の立場から見ようとするのが、何の理論だ』。
−宋斗律氏を北朝鮮で誰が担当したのですか。
『統一戦線部第1副部長林ドンウクが管理した考えだ。林ドンウクは、対南関係を実質的に操縦する人物です。南北高位級会談時も、彼がソウルに来て、延亨黙を後ろから操縦しました』。
最終更新日:2004/03/19
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